この原稿は、北房町人権問題研究会発行のニュースに掲載を依頼されて書いたものです。

掲載は、2001年4月号とのこと。 


人権の神様

 岡山県内のどこの町村にも、たくさんの社(やしろ)や仏閣があって、そこでは地域の人々の願いを叶えるべく、様々な神様が祭られている。そして、それらの神様が、本当に地域の人々を愛し、人々の願いを叶える神様であれば、人々は神々の前で、「心から」お祈りをし、家庭や職場でも、自分の生活態度に注意を払い、神様が願いを叶えてくれる瞬間が、やって来るのを、待つだろう。(例えば、受験生の合格祈願など。)
 信仰心のある人で、その人が「心から」差別のない、人権満開の社会実現を願うのであれば、地域内のあちこちの社や仏閣に、八百万(やおよろず)の神様たちと共に、人権の神様が祭られていても不思議ではない。
 また、信仰心のない人の場合には、社や仏閣の神様たちの御心の中にではなく、その人自身の脳みその中に、「私は私の人権を大切にし、同時に、他人の人権も重んじるのだ」という、どんな非常時にも、決して忘れたり、脇に避けたりしない「知性」が、がっちりとインプットされていなければいけない。
 いまだ、そのような人権の神様を祭る社や仏閣がなく、人々の脳みその中に、硬い決意が組み込まれていないのであれば、その地域に暮らす人々の人権意識は、微弱であり、その地域では、自分の人権も他人の人権も、ときどきしか、思い起こされることはないだろう。(人権・同和啓発講習会の時など。)
 人権意識の低い人は、しばしば、平気で、あるいは無意識に、人を差別し、自分の人権が侵されていても気づかない。そのような人々の暮らす地域は、差別社会であり、人々の健全な「心から」の願いは実現されないから、人々の郷土愛も次第に薄れ、健全な心の人々も、遂には自分が愛される場所を求めて、郷土を後にするだろう。
 私たちは、21世紀における郷土発展のために、社・仏閣の中か、私たち自身の頭の中に、人権の神様を宿らせることが、是非とも必要だ。(2/9/2001/明楽誠)