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2000年度 日本思想史学会 参加記

(10月21日・22日、東北大学)


はじめての参加
 高橋文博先生に勧められ今年会員となった。しかし、高橋先生は現在カイロ大学へ出張中なので、学会に知り合いはいない。ただ、今年の新会員名簿に先輩の川田稔(名古屋大学)さんの名前もあったので、川田さんも参加されているかも知れないとの期待も抱きつつ、とにかく、最初の年なので参加してみた。
 しかし、川田さんの姿はなく、結局、大会期間中、だれとも研究などについて会話をすることはなかった。第一日目は3会場に別れて研究発表が行われ、私は第3会場の報告を聞いた。午前10時から12時まで、4本の報告があり、午後には7本の報告が予定されていた。
 午前の報告を聞いてまず驚いたのは、報告と討論の短さだ。報告者には20分の報告時間が与えられ、その後5分の討論である。午前で云えば、2時間で4本の報告だから、一人当たり5分程度の余裕はある。しかし、報告と討論を聞いてみると、どちらも極めて不十分な感じが否めない。しかし、考えてみると報告時間を20分にすることで、大勢の研究者たちに発表の機会が与えられるということだ。その点をよく考えて、論点を絞った明快な報告をすることが発表者には課せられ、それ自体、大変に勉強になるに違いない。
 多分野の報告を聞いて消化不良になりそうだったので、結局この日は午前の報告を4本聞いてから、天気も秋晴れだったので大学を後にし、午後は仙台駅か仙石線の電車に乗って松島海岸までゆき、遊覧船で松島見物をした。一人旅だったけれど、初めての東北、しかも有名な松島見物だから、結構楽しかった。翌日はシンポジウムに参加。
第一日目の報告と討論

1.「西田哲学に見る宋学的伝統」

       (関西大学 井上克人氏)

 井上氏は、これまでの「西田哲学における東洋的伝統といえば専ら臨済禅、もしくは大乗仏教の面ばかりが取りざたされ、主客未分の「純粋経験」論およびそれを踏まえた宗教哲学にのみ限局されて理解される嫌いがあった」(発表要旨)とされ、本発表では「いわゆる禅をもその内に含む宋儒学的伝統を、西田の思考様式の内に見」ようとされた。 
井上氏の報告主旨は、氏の次のようなレジュメの記述に明示されている。
 「『善の研究』に至る西田の思索は一貫して、体系的な倫理学の構築にむけられていた。明治37年頃執筆された「英国倫理学史」(全集第16巻所収)のなかで、西田は、倫理の根拠はあくまで「万古不易」であって、しかもそれは「人為」によって媒介されていることを主張する。こうした考えは「天理」を自然と人事とを貫徹する普遍的客観的な理法として捉えた宋儒学的発想と同じものである。」(レジュメ、3ページ)
 「このグリーンの考えは「性即理」を標榜し、「本然の性」への「復初」を提唱する宋学的倫理ときわめて類似していることは明らかであり、自己実現が同時に公共の善となるといった発想は『大学』の条目にある「修身斉国治国平天下」、つまり個人の持敬精神がつまるところ公共の世界への倫理的責任感に通じるとする基本的考えと類似している。」(レジュメ、5ページ)
 「西田の思索の基本的発想は直接にはグリーンの影響というよりは、先に示したようにグリーンにも通ていするところの宋学的儒教倫理であったと考えるべきであろう。」(レジュメ、5ページ)
 井上氏の理解によると、西田倫理学=グリーン倫理学=宋儒学的倫理学ということである。
 第一報告から、このような「大胆な」報告がなされたのだが、フロアーからの質問は、井上氏の宋儒学の特徴のつかまえ方に対する質問と、西田自身が幼少期に宋儒学を実際に学んだという資料があるのかという質問などが少し出され、報告時間は終了した。
 僕の関心からいえば、井上報告には、西田倫理学は、封建的質を有するものなのか、それとも近代的なそれなのかという原理的な根本問題が存在すると思うのだが、学会の雰囲気は、そのような原理的問題には関心が向いていないようだ。そのことは、第二日目の北京大学の陳来氏の「中国における宋明理学研究の方法、視点とその趨向」という報告にも共通したものだったと思う。
2.「「内村鑑三不敬事件」再考」」
(宮城学院高等学校、今高義也氏)
 第一高等中学校嘱託教員内村は、明治24年1月9日、同校の教育勅語奉読式において、宸署に対する敬礼が足らなかったことを非難され、事実上の退職となった。これまでの内村研究史も、この日の奉読式に参加した内村の意識に関心を寄せ、「瞬時的決断」説と「低頭拒否覚悟」説とがあった。
 今高氏は、「“この日あえて出席した内村(他のキリスト者教員2人は慎重を期して欠席)の覚悟如何”である。はたして「奉拝」を拒否する決意を固めて式に望んだのだろうか。「全く心の準備がなかった」との内村自身の告白からしても、むしろ内村は天皇を敬愛し勅語の精神を奉じる「愛国的キリスト者」としての<良心>から、自分なりの<敬礼>をなすつもりで式に参列していたのではないか。しかし、式が進行する中で、「仏教や神道の儀式で祖先の位牌の前でするようになっている同じやり方で」頭を下げなけれはならない(「拝礼的低頭」)という、内村にとっては予想外の「奉拝」理解が教頭から示されたことによって、この「奉拝」は「自分のキリスト教的良心を傷つける」ことになるとの咄嗟の判断が働き、内村は「低頭」を「躊躇」することになったのである。」(報告要旨、13ページ)
 この今高氏の報告は、僕の取り組んでいる新島研究、とりわけ新島と儀礼の問題とも関係していて興味深いものであった。
 今高氏は、「「事件」前の内村の天皇観」に注目し、それに関連する資料を示されているが、それらの資料から、内村にも天皇に対する何らかの敬意があることは分かるが、その敬意の中身がなんであるのかまでは分からない。今高氏は、内村関連資料の中の天皇関連記述を統べて調査されているのかどうかも、気になるところである。しかし、大会ではその点をお尋ねすることもできなかった。同氏には、別の機会にでも、お尋ねしてみたいと思う。
 雑感だけれども、今高さんも含め、これまでの内村不敬事件は、奉読式に参加した内村の意識を問題としているのであるが、僕は、内村が「第一高等中学校嘱託教員」であったことにも着目する必要があると思う。あくまで民間に留まり一刻も早くキリスト教主義の大学を設立することで、日本改造のリーダーたちを養成することを任務とした新島と、官学の教師となる内村。同じく「愛国的キリスト者」といっても、二人の「愛国」の中身、あるいは明治国家とのスタンスの取り方は一様ではないだろう。
3.「志賀重昂の儒教主義教育批判」(ボンド大学 キャビン・まさこ氏)
4.「三宅雪嶺における「個」の問題」(同志社大学 長妻三佐雄氏)
 これらの報告の内容は省略する。キャビン氏は志賀の、長妻氏は三宅の、明治国家の儒教主義教育に対する批判者としての側面をクローズアップされた。

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